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コラム 三寒四温

弊社の週刊紙「速報・製パン情報」から、好評の三寒四温をご紹介。
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肝っ玉母ちゃん

 福島県伊達郡川俣町に本社のある、キャンデーヤパン店の齋藤久子専務の元気な声が受話器の向こうから聞こえてくる。「震災の被害はどの程度でしたか」「うちの店はほとんど問題ないけれど、仙台や他の店舗は電気がないから営業ができないわ。本店のセントラル工場は通電もあり、早朝から支援のパンを夜中までぶっ通しで焼いているけれど、病院やスーパーへはガソリンがないから運べない。一部の従業員もガソリンがないので出勤できないから少人数でがんばっています!」「食材で不足しているものはありますか?」「業者にどなりつけて持ってこさせているから心配ないわ!問題はガソリン不足だけです!」。
 ちなみに支援のパンを運ぶ時には役所からその分のガソリンだけは支給されるのだという。16日現在でまだ一回だけ満タンにしてもらっただけだとおっしゃっていました。川俣町は原発から距離にして50㎞圏内だそうで、「避難地域が20㎞、30㎞と日を追うごとに近づいているのが心配だわ」とも言っていた。それでも「パンを焼き続けます!」と肝っ玉かあちゃん専務は威勢がいい。
 原発の担当大臣が、東京電力本社に詰めているというが、世界中で一番緊張が高まっている今、現地に出向き自らの身の危険を顧みず、陣頭指揮を執る姿を日本をはじめ全世界に見せてほしいものだ。
 肝っ玉母ちゃんは、日本にたくさんいます。ですから、日本はくじけません! 

マグニチュード9・0!

 地獄絵図と化した風景が繰り返しTV画面に容赦なく映し出される。その光景はまるで悪魔が一瞬でなめつくしたかのように惨澹たる有様に、その映像を凝視するのみで言葉も出ない。
 「こんなことがあって良いものか」。
未曽有の大震災による津波は、ものすごい勢いで襲いかかる。土砂流に車や家屋、漁船までもが町中の道路をなめつくしていく。気仙沼の火災は、戦争記録映画で見た事のある東京大空襲のようだ。目をそむけたくなるTVの映像をバックにアナウンサーが被災者にマイクを向けて「今、どんなお気持ちですか」と尋ねている。ナント非常識なヤツだ!思わずソファから立ち上がり、ベランダに出るといつも見慣れている入り組んだ首都高のジャンクションには一台の車も通っていない。ときおり、消防車が列をなして右に左にけたたましいサイレン音を鳴らして通り過ぎる。その首都高の下に伸びる一般道は六本木方面も溜池方面もびっしりとテールランプが並んでビクとも動かない。歩道には、たまらず歩いて帰宅する人の列が長く長く続いている。寒いベランダからソファに戻ると、床暖房が暖かい。
 TVでは、降りしきる雪の中、家を失った人たちが食料もなく、家族の安否をも知れずに避難所に身を寄せている。しかし、私にはなにもできない。〝無力〟であることが悲しい。せめて今、できる事、床暖房のスイッチをオフにして室内の灯りを消した。一瞬の恐怖の中で亡くなられた多くの方々のご冥福をただひたすら祈るばかりだ。一日も早く、やすらぎのある生活環境に戻れますように。

さようならヌールさん

 思い起こせばちょうど一年前、お台場のビッグ・サイトで開催された国際ホテル・レストラン・ショーでモンディアル・デュ・パンコンクールの日本代表ブーランジェを決定する準決勝戦が盛大に行われたのは記憶に新しい。当日の夜に千代田区九段にあるチュニジア共和国大使公邸において、コンクール関係者約100名を招いていただき、チュニジア料理とシャンパンやワインでねぎらってくださった駐日特命全権大使のヌルディーン閣下。大使アレンジによる美人ダンサー3人のベリーダンスも素敵でしたね。
  そのチュニジア共和国でご存知の通りの政変が起き、新政府が誕生しました。これが世に言われる〝ジャスミン革命〟で今日では中東各国に飛び火して広範な政治改革の契機となっています。ヌルディーン大使の父上は、チュニジア共和国独立運動の指導者で〝建国の父〟とも呼ばれた方でしたが、その後暗殺されました。ヌールさんは新政権に敬意を表して1月20日に辞表を提出して暫定政権より受理されました。ベンアリ大統領が国外へ脱出した6日後のことでした。これはとても勇気ある行動だと私は思います。「私は2月の末に本国に戻ります。SUGATAさん」「それではサヨナラディナーはいかがですか」というわけで、ヌールさんと私の共通の友人でもあるモロッコ王国のアルール大使とマスダックの増田社長、中沢フーズの中澤社長、そしてメゾンカイザーの木村社長の5人でNOBU TOKYOにてねぎらいのシャンパンの杯を鳴らしました。2次会は、アルール大使が気を利かせてヌールさんの大好きなシガーを味わうべく、六本木のグランドハイアットホテル内のシガーバー「マジュロ」にて夜中まで語り合い、最後は熱い抱擁を繰り返しマル外のナンバープレートを見送りました。 
  月曜日、私のデスクに大きな封筒が置いていました。チュニジア共和国の金の紋章が印刷された封筒の中には、見たことのある絵が一枚入っています。以前、大使公邸の応接室に飾られていた絵を見て、「これ、素敵ですね」と思わず見入ってしまった一枚。覚えていてくれたのですね。ヌールさんの絵画はプロはだしです。そしてその裏に自筆のサインとメッセージが書かれていました。「日本に於ける、一番の友人、KOJI。私はいつまでも君を忘れることはない。 28/2/11」また、いつかお会いしましょう。それまでどうかお元気で。

赤い靴

 「今朝は機嫌がいいのね」と家内。車を運転中にふと口ずさんでいた〝赤い靴〟、いつのまにか2人して歌ってしまいました。
  赤い靴(くつ) はいてた 女の子
  異人(いじん)さんに つれられて 行っちゃった
「そうか!昨日読んだ町内誌に赤い靴の話をデカデカと書いてあったなぁ。」それでいきなり頭に思い浮かんだのか、とかくこのようなことはいつもあるものです。「赤い靴の主人公の名前は〝きみちゃん〟て言うの知っていた?」「知らないわ」と、素気ない家内。「野口雨情っていう人が作詞したんだけど」「それは知っているわ。ボンヤリと一番だけ、確か2番は横浜の埠頭(はとば)から汽船(ふね)に乗って行っちゃうのよね」
 〝きみちゃん〟の未婚の母は北海道へ開拓民として渡り結婚するのですが、3歳の〝きみちゃん〟にとっては厳しい過酷な生活を案じて、母はアメリカ人宣教師に養女として〝きみちゃん〟を託しました。その後、母は〝きみちゃん〟と会うこともなく只々彼女を思いながら北海道の開拓地で生涯をとじたのですが、この話を知った野口雨情が母親の切ない思いを込めて書いたのが、この名曲「赤い靴」です。
 実は、私は初めて知った事実があります。町内会誌を読んで、そして、ネットで調べて、〝きみちゃん〟は外国へは行っていなかったこと。6歳の時に結核にかかった〝きみちゃん〟は麻布の鳥居坂教会の孤児院へ授けられ、そして9歳で亡くなりました。お母さんは知る由もありません。野口雨情もこの事実は知らなかったようで、知っていたらこの名曲は世に出ることはなかったでしょう。厳しい開拓地より遠く海の彼方を見ながら宣教師と一緒に外国に行ったであろう〝きみちゃん〟を想う歌詞が心をうたれます。歌詞の4番は切なく悲しく、胸が詰まります。
 赤い靴 見るたび 考える
 異人さんに 逢(あ)うたび 考える
 2011年、今年が〝きみちゃん〟の没後百年だそうで〝きみちゃん〟の短く、悲しい生涯から親子、家族の絆、子供の人生を皆で考えようという輪を広げる運動が麻布から発信されています。鳥居坂公園の〝きみちゃん像〟を見てきました。「〝きみちゃん〟にお腹いっぱいに美味しいパンを食べさせてあげたかったね」「うん…」

弊社社長 菅田耕司のコラム


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