やさしいカレー
中央線高円寺北口のビジネスホテル脇の細い通りの先に、40年以上続けて営業している「丸屋蕎麦店」があります。そこは母との想い出の店。私は5歳の頃から50年近く高円寺に住んでいました。
昔の蕎麦屋のカレーライスは黄色くてちょっと粉っぽかったような気がしました。多分独自のレシピなんかなかったんではと思うほどに日本全国同じ味だったように感じているのは私だけではないはずです。それは〝カレー〟なるものが蕎麦屋の看板メニューとして徐々に確立されていく初期だったのでしょう。ですから、味が濃かったり薄かったり粉玉が残っていたりと散々でお蕎麦屋さんの試行錯誤の時代のカレーライスを食べている時に私はウスターソースが必要でした。これをかけるとどこのカレーもみーんな同じ味になります。ご飯にまでかけて食べているのは今も同じです。
母に連れられて丸屋でのオーダーは母はカレー蕎麦、私はカレーライスです。あんかけの熱いカレー蕎麦の汁をお洒落な和服に飛ばさぬように細心の注意を払って上手な箸捌きですする母。私はスプーン山盛りのご飯に十分カレーソースを絡めては口に運び続ける。カレーを食べるときはふたりとも無言でした。母と一緒にカレーを食べたのはこの一度だけ。そして母と一緒に丸屋の暖簾をくぐったのも、この一度きりでした。丸屋の店先にはリアルな食品サンプルのソバや丼物が所せましと飾ってあるのですが、店に入ることもなく、40年間通り過ぎていました。床屋の帰り際、初老となった店主が母の話題を少し振りました。そしてお互い、年を重ねたね、と。そんな矢先に丸屋の前を通った時、呼ばれるようにカレーライスのサンプルが目に入ったのです。40年振りに暖簾をくぐりました。さほど昔とは変わっていないような雰囲気の中、母が呼んだのかもしれません。
「やはり粉っぽいな。ウスターはいらないか。いやいや、やはり少しかけてみましょう。厚切りのタマネギと小さな豚バラが2切れずつ、ゴロゴロ具が入ってないのもいいね。うんうん、この味この味」。
目の前には和服姿の母がカレー蕎麦をおいしそうにすすっているかのようにがなつかしく思い出されるやさしい味でした。
昔の蕎麦屋のカレーライスは黄色くてちょっと粉っぽかったような気がしました。多分独自のレシピなんかなかったんではと思うほどに日本全国同じ味だったように感じているのは私だけではないはずです。それは〝カレー〟なるものが蕎麦屋の看板メニューとして徐々に確立されていく初期だったのでしょう。ですから、味が濃かったり薄かったり粉玉が残っていたりと散々でお蕎麦屋さんの試行錯誤の時代のカレーライスを食べている時に私はウスターソースが必要でした。これをかけるとどこのカレーもみーんな同じ味になります。ご飯にまでかけて食べているのは今も同じです。
母に連れられて丸屋でのオーダーは母はカレー蕎麦、私はカレーライスです。あんかけの熱いカレー蕎麦の汁をお洒落な和服に飛ばさぬように細心の注意を払って上手な箸捌きですする母。私はスプーン山盛りのご飯に十分カレーソースを絡めては口に運び続ける。カレーを食べるときはふたりとも無言でした。母と一緒にカレーを食べたのはこの一度だけ。そして母と一緒に丸屋の暖簾をくぐったのも、この一度きりでした。丸屋の店先にはリアルな食品サンプルのソバや丼物が所せましと飾ってあるのですが、店に入ることもなく、40年間通り過ぎていました。床屋の帰り際、初老となった店主が母の話題を少し振りました。そしてお互い、年を重ねたね、と。そんな矢先に丸屋の前を通った時、呼ばれるようにカレーライスのサンプルが目に入ったのです。40年振りに暖簾をくぐりました。さほど昔とは変わっていないような雰囲気の中、母が呼んだのかもしれません。
「やはり粉っぽいな。ウスターはいらないか。いやいや、やはり少しかけてみましょう。厚切りのタマネギと小さな豚バラが2切れずつ、ゴロゴロ具が入ってないのもいいね。うんうん、この味この味」。
目の前には和服姿の母がカレー蕎麦をおいしそうにすすっているかのようにがなつかしく思い出されるやさしい味でした。