恩師
私は勉強が嫌いでした。
ですから学び舎では先生方を“尊ぶ”事はなかったのでしょうか、失礼ながらお顔さえ思い出す事ができません。大学を出て社会人となってからも“師の教え”のない私は社会生活に馴染める訳でもなく、父に勘当され離婚もして4歳の娘を独り育てる事になります。
それから5年近くハワイで毎日遊び呆ける生活が続くのですが、生き甲斐は娘の成長でした。
音大付属の小学校を2年で中退させてハワイに呼び、同年代の女の子がいる白人の母子家庭にホームステイさせて現地の公立小学校に通わせ、金曜日の夜に迎えに行き、翌日はワイキキの日本人学校へ連れて行き、親子合作の手料理で日本食を楽しみ、日曜の夕方に再びホームステイ宅に送り届ける、そんな日々が続きました。
ピアノ教師をしていたホームステイ先のお母様はピアノが大好きだった娘の良き「師」だったのではないでしょうか。
「お腹が痛いの!」
こんな簡単なことですら(だからこそ大切でもあり…)英語で伝えられない子供をほっぽり出す私も私ですが、耳で覚える実践式英会話の上達はめざましく、ものの3カ月で発音がネイティヴそのものに進化していました。
同年代の女の子たちとジャズダンスに行き、プールで遊び、BBQをしたり。ピアノのレッスンはもちろん、勉強も共に学び、ステイ先の子とはいつしか仲の良い姉妹のようになっていた……と都合よく勝手に思い込んでいたのですが、最近になって聞かされた我が娘の当時の心の痛みは計り知れないものがあったようです。
金曜日のお迎えの時のはにかむ笑顔。
日曜の別れ際にずっと手を振って私を見送っていた幼い娘。
今では中学2年生と小学2年生になる2人の母親です。私の育て方とは全く違う愛情いっぱいの親子関係は、父親たる私が反面教師の“師”となることで今日に生かされているのかもしれませんね。
ハワイから帰国後はバックパッカーとして世界を放浪し、東京でも好き勝手に生きていた私でした。
そんなある日、父が入院しているとの知らせを御茶ノ水の順天堂病院の主治医から受けて、見舞いに行きました。
勘当されている私は父の顔を見るのも嫌でした。しかし個室のドアを開けると、ベッドに伏している父が主治医に向かって
「先生、自慢の息子です」
と満面の笑みで私を見ます。
長く続いた勘当を解いてくれました。
我が子を嫌う親がどこにいるのでしょうか。
万感の思いが胸に込み上げ、
傍で付き添っていた母も涙していました。
それから7日後、父が天に召されました。22年前の事です。
母からは父の会社を継ぐようにと告げられ、会長として気軽な気持ちで出社したものでした。そして翌年から3年の間に、私は自らの心にいつまでも忘れる事のできない、3人の「恩師」と出会う事になるのです。(つづく)