四知
病気入院の期間は短いほうがよい。
これは誰しも思う事ですね。そして仕事や勉強は自分の能力を少し超えるくらいが丁度よい。これは自己満足の達成感や人目を気にしてのものと私は思う。現在では常識とされている事も、昔からすべて当たり前というわけではなかった。
常識←→ 非常識。
日常←→ 非日常。
どうやら私は相反する事が好きらしい。と、病室にて夜明け前のスーパームーンを眺めながら考える。私はさしずめ“為成者”(しなしもの)かもしれない、と思う一方で死後2~3年くらいの間は「こんな男がいた」と語られるような生き方を、なんて意識もしています。
となると、やはり為成、いや偽善者の一人なのでしょう。必ず忘れ去られる定めなのだと思います。私の人生、特に還暦を過ぎたあたりから人の噂に対して弁解も批判もせず、ただ黙して語らずと格好つけてきましたが、実は家内や数少ない親友相手にはいじましい弁解やボロクソな批判を我慢せず、口角泡を飛ばす勢いで憤っていました。単なる八つ当たりですね。
しかし古希を過ぎて入院生活が日常のようになるにつれて、その怒りは徐々に収まってきました。いや、収まるというより、興味が失せてしまうのです。ですから私の理想とする本物の“いい人”とは、およそ縁遠い人生となりました。
私の愛読書に三国志がありますが、その中で「四知」という名言があります、家内にコピーして持ってきてもらったので、そのまま引用します。
天、知る。
神(地)、知る。
我、知る。
子(なんじ)、知る。
なんぞ知るもの無しという。
誰もが知っている格言なので説明は省きましょう。
どんなに自分を取り繕っていても、全ての事実は四方に知れ渡り、“徳”は積まれないどころか、事と次第によると今の私には悪名しか残らないのかもしれません。
数々の試練、それはここ3年間で7度に及ぶ全身麻酔による手術の事ではなく私の無思慮で場違い、横柄な言動にある。そんな災いを自身の内に留めおいていた事が“罪”であり、真の試練であり、許しがたい“生き方”だったと、今頃になって私は悔いるのです。
なぜこんな事を文字にしているのか? 病んだ今の私は、きっと“これ以外、する事が無い”からだと思います。笑ってしまいますね。
不規則に点滅するビル群の赤色灯をずっと眺めていたら、さすがに眠くなりました。「ボーッと生きてんじゃねえよ!」とチコちゃんに叱られそうです。
明日からはポジティブに明るい未来を思い描く、そんな日々を過ごしていこうと思います。あーあ、早く退院して日本橋千疋屋の大島専務からいただいた、スペイン産の最高級ドライシェリーを冷やしてグイッと飲りながら、タプナードをたっぷり塗ったバゲットスライスを食べたい!
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