原点回帰
私の学生時代に流行ったファッションといえば、一世を風靡したVANとJUNです。と言っても、私の定番スタイルはVANの綿パンが唯一のトレンドアイテムで、冬以外はビーチサンダルにペンギンマークの半袖ポロシャツ。そんな若き日の思い出話です。
原宿駅から表参道へ下った1つ目の交差点にあるビルの入口前に、夕刻になると赤いオペルのカゼットを駐めて佇む男がいました。通称 “ピンキー” は日系三世で、当時の原宿界隈での遊び人グループ「カスミ会」のボス的存在。六本木・麻布界隈のグループには峰岸徹、大原麗子といった大物俳優が名を連ねる野獣会や、新宿あたりでは実態不明の「侍の会」などの存在が耳に入ってきました。いずれもメンバーは大学生でしたが、高級外車を乗り回す富裕層のジュニアたち。かくいう私も日産GTRの前身であるプリンス・スカイライン54Bというスポーツカーが愛車でした。友人達の親も錚々たる大企業のオーナーが多く、渋谷文化ホール横の大地主の息子であるピンキーがたむろしている交差点の地下にはブラッキーというサパークラブ、隣のビル1Fにはピザ専門店の「ミッシェル」。道路を挟んだ正面には「ルート5」というドライブインがあったのですが、今となっては想像もできません。
毎日ゝ夕刻になると学校帰りに店の周辺に仲間たちと車を駐め、スペースがなければ二重駐車をするものですから翌年には駐車禁止に。そこで我々は赤坂一ツ木通りのTBS正面玄関前(当時)にあったピンクと白のテントで有名なアマンド赤坂店にたむろする事になったのです。一ツ木通りに面してカウンターがあり、ハンバーグライスを食べるのが楽しみでした。懐に余裕がある時はアマンドの地下にあるレストラン「エスコフィエ」へ。NHKのど自慢の伴奏で有名なアコーディオン奏者・横森良三さんのピアノ(当時アルバイトで弾いていたそうです)を聴きながら、フランスの有名シェフの名を冠した「エスコフィエ」を楽しんだものです。
60年代当時の赤坂はクラブやキャバレーが多く、スカルノ・インドネシア大統領に見そめられた、のちのデヴィ夫人が働いていた高級クラブ「ラヴィアン・ローズ」や、800人のホステスを擁していた伝説のキャバレー「ミカド」。その他ゴールデン、月世界など “大箱” が揃い、質の良いナイトクラブの全盛期でした。しばらくして月世界は会員制ディスコのさきがけといわれる「ビブロス」となり、夜遊び好きの若者に愛されました。「檻の中」「大使館」「ポテトクラブ」など今ではレガシーな店があったのです。南麻布のロシア大使館の横にあった「麻布ドライブ・イン」や六本木の「ハンバーガー・イン」、ピザの老舗「ニコラス」などほとんどが閉店しましたが、大原麗子さんが通っていた「キャンティ」は健在です。
コロナ禍で同じニュースばかりを流すTVを消して、新宿の高層ビル群の上空を通過するジャンボ機を眺めていると、無性に若き学生時代の記憶が押し寄せてきます。ミッシェルのピザはおいしかったなー。ハンバーガー・インのカウンターの上にクリップで止めてある、ポテトチップスの小袋を手に取り、ケチャップとマスタードを付けて食べたあの時の雰囲気と味をもう一度感じてみたいものです。
理想と現実のギャップに嫌気がさしている今日このごろですが、初心に戻れば新鮮な食生活が見えてくるかもしれません。私の本能が原点回帰を求めています!
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