“希望” そして ”幸い”
ギリシャ神話に登場する「パンドーラ」。神々によって作られた、人類の災いとして地上に送り込まれた人類最初の女性とされ、その名である「パンドーラ」とは“すべての贈り物”という意味がある。
……とウィキペディアフリー百科辞典にありました。現代では「パンドラの箱」としてその名は広く世界中で知られています。開けてはいけない禁断のパンドラの箱は、パンドーラが好奇心に負けてその箱を開けると、そこには様々な災いが飛び出して世界が厄災に満ち、人々は苦しむ事になったそうです。しかし、パンドラの箱の下に、たった一枚の紙がへばりついて残っていました。その紙には「希望」の文字がありました。
これは一体、何を意味するのでしょうか? 諸説あるようですが、
「希望は箱の中に残されたので、外の世界には希望がある」
という説に惹かれますね。“希望は絶望につながるものにあらず”そう理解すれば明るい未来が見えてくるような気がしませんか?
先週の日曜日の礼拝で「山上の垂訓」を学びました。
「心の貧しい物は幸いです。天の御国はその人達のものだから」
で始まる8つの幸いの御言葉は神から授かる幸せです。でも、「幸せ」って果たして何なのでしょうか? “幸い”を見つけた人はいるのでしょうか。キリスト教最大の謎がここにあります。では“希
望”を見つけた人はいるのでしょうか。
「希望があるために未来がわからず、諦めることを知らない人間は、永遠に希望とともに苦痛を味わなければならない」
という説は恐ろしいですね。ギリシャ神話で天界から“火”を盗んだ「プロメーテウス」に怒った神が人類に災いをもたらすために「女性」をつくったそうです。あのパンドーラ、パンドラの箱の底に残った一枚は、プロメーテウスが忍ばせた、という説は実に面白いですね。
欲に生きる人間を比喩する昔話の代表格に「玉手箱」があります。パンドラの箱も同様に開けてはいけない、と言われて開けないでいる人はそうそういるものではありません。
「ほんの少しだけ」
「ちょっとだけ」
のぞき見するのが人間の“欲”なのではないでしょうか? だって、そこには罪は存在しませんからね。
宇宙の果てのように、スーパーコンピューターを持ってしても計り知れない神秘の世界の中に生きる我々人類の永遠の課題、「希望」そして「幸い」。
〈マタイの福音書 第5章 6節〉
「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから」
〈マタイの福音書 第5章 7節〉
「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから」
希望と幸いに満ちあふれた人生って、素敵ですね。