親父越え
20107年の弊社創業70周年を記念して、父の遺産である日本パン・菓子新聞の歩みを縮刷版にて第1号より同紙に順次巻末掲載しています。敗戦直後の食糧難に際して製パン業界の発展を真に案じ、多方面から取材して自らペンを走らせた忌憚のない記事が並び、読み返すほどに「ここまで斬り込むか!」と気迫の込もった筆力に圧倒されます。
父は熱い人でした。しかし想い出はほとんど無いのです。なぜなら日本全国を飛び回って情報収集に努め、人脈を着々と築き上げることに追われ多忙を極める日々だったからです。そんな父との記憶といえば、正月の温泉旅行。毎年箱根の旅館に母と3人で訪れた事くらいが、幼少の頃からかすかに残る想い出です。
大学に入ってからはアルバイトで友人とともに新聞の購読料の集金で日本全国を旅行しました。この記憶が呼び起こされたのは、昨年偶然に連絡が取れた同級生から「そういえば、耕ちゃんと日本中を巡ったよなあ」と集金旅行の話を聞かされたからです。それは学生生活の4年間、夏休みのメインイベントでした。どのパン屋さんを訪ねてもあたたかく接していただき、購読料をいただきつつ食事までご馳走になりました。
卒業後は大阪支局で2年間勤務するも、父とのささいな諍いもあり、その4年後には勘当されて20年間にもおよぶ断絶がありました。おそらく、悪魔と共に過ごした “時” だったのでしょう。そして父が72歳の時、私は順天堂病院に入院している父と対面しました。
開け放たれた個室のベッドに座り主治医と話す父。私の姿を見るや、父は主治医に「私の自慢の息子ですよ、先生」と一言。ああ、私は許された!と感じたその10日後、父は天に召されました。
あとから知らされた話なのですが、神田の事務所からほど近くに “キタナトラン” といった風情の中華料理店がありまして、常連客だった父が亡くなる2日前に「ふらっと餃子を食べに来たよ」と店主から教えてもらいました。享年72歳の生涯、がんを患って天に召された父の遺伝子を私も引き継いだのですが、飛躍的な医療の進歩により、今年の12月には何とか親父越えができそうです。年齢だけですが。
バージニア・ウルフという詩人がこう書き記しています。
「何事も書き表されて、初めて起こった事となる」
ですから私はこう思うのです。父の残してくれた媒体を通じて「私と悪魔との出来事を書にしたためるために、私は有意義な “時” を使おう」と。
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